人的資本投資とは、従業員の知識や能力といった要素を企業の資産として捉え、その資産に資金や時間を費やすことです。研修や福利厚生への投資が離職防止に結びつくのかや、経営陣に必要性をどう説明するかなど、人材育成の進め方に頭を悩ませている人も多いでしょう。人事・経営企画部門では、こうした問いが繰り返し持ち上がります。本記事では、人的資本投資の定義と、経営課題として扱われるようになった背景を整理します。あわせて、具体的な施策例と、成果につなげるための進め方を解説します。
人的資本とは、従業員が持つ知識やスキル、経験、能力などを、企業の価値を生み出す「資本」として捉える考え方です。その価値を高めるために、資金や時間を投じる取り組みを人的資本投資と呼びます。
まずは、人的資本投資の意味と、人的資本経営における役割を整理します。基本的な考え方を理解することで、自社が何に投資すべきかを判断しやすくなります。
人的資本投資の代表的な施策は、教育研修や人材育成です。ただし、人的資本投資の対象は研修だけではありません。働きやすい環境の整備、健康支援、キャリア形成の支援、人材配置の最適化なども含まれます。
従来、人件費や研修費は、削減すべきコストとして見られることがありました。人的資本投資では、こうした支出を、人材の価値と企業の競争力を高めるための投資と考えます。社員のスキルや能力が高まれば、企業が生み出せる成果も大きくなるという発想です。
人的資本と似た言葉に人的資源があります。両者は人材を経営に欠かせない存在と捉える点で共通していますが、重視する視点が異なります。
人的資源は、現在いる人材をどのように配置し、能力を活用するかに重点を置く考え方です。一方、人的資本は、人材の能力は投資によって伸ばせるという前提に立ち、中長期的な成長を重視します。
観点 | 人的資本 | 人的資源 |
|---|---|---|
人材の捉え方 | 投資によって価値が高まる資本 | 経営活動に活用する資源 |
費用の考え方 | 将来の成果を生む投資 | 管理するコスト |
施策の目的 | 能力を高め、企業価値につなげる | 現在の能力を効率的に活用する |
重視する期間 | 中長期的な成長 | 短期的な効率 |
人的資本の視点に立つと、「今いる人材をどう使うか」だけでなく、「将来の事業に必要な人材をどう育てるか」まで考える必要があります。
人的資本投資が経営課題として扱われる背景には、「情報開示」「政府による支援」「人手不足」の三つがあります。
日本では、2023年3月31日以後に終了する事業年度の有価証券報告書から、人的資本に関する情報開示が求められています。2023年1月31日の内閣府令改正により、「サステナビリティに関する考え方及び取組」の記載欄が新設されました。あわせて「従業員の状況」に、女性管理職比率、男性の育児休業取得率、男女間賃金格差の記載が求められています。
さらに2026年2月20日、金融庁は開示府令を改正しました。2026年3月31日以後に終了する事業年度の有価証券報告書から、次の三点の開示が新たに求められます。
この改正では、「従業員の状況」の記載位置も「企業の概況」から「提出会社の状況」へ移りました。人材戦略を経営戦略と結びつけて説明することが、制度上の要求になっています。
出典:「企業内容等の開示に関する内閣府令及び特定有価証券の内容等の開示に関する内閣府令の一部を改正する内閣府令」等の公布及びパブリックコメントの結果について:金融庁
二つ目は、政府による支援です。厚生労働省は人材開発支援助成金を設けています。事業主が職業訓練を実施した場合に、訓練経費と訓練期間中の賃金の一部を助成する制度です。
コースの一つが「事業展開等リスキリング支援コース」です。新規事業の立ち上げやDX推進に伴って必要となる訓練が対象になります。助成率や上限額は改正されることがあるため、検討する際は公式ページで最新の要件を確認してください。
三つ目は人手不足です。帝国データバンクの調査によると、2026年4月時点で正社員の不足を感じている企業は50.6%でした。4月としては4年連続で5割を超えています。非正社員の不足を感じている企業は28.3%でした。
業種別では、情報サービスなど7業種が6割以上となりました。情報サービスでは、AIの普及によって案件が増える一方、スキルが合う人材の取り合いが起きています。
採用市場から必要な人材を確保できる前提が崩れつつあります。そのため企業には、外部から採用するだけでなく、既存社員の能力を高め、長く活躍してもらう取り組みが求められます。
ここでは、人的資本投資が有効に働く四つの組織課題を取り上げます。自社がどの状態に近いかを確認してください。
従業員の知識やスキルが不足していると、業務の質と処理速度が上がりません。
例えば、営業担当者に商談や提案の研修を行えば、顧客の課題を捉える力が高まります。受注率の向上にもつながります。事務部門にITツールの活用方法を教育すれば、手作業が減り、業務時間を短縮できます。
ただし、研修を受けただけでは業務は変わりません。学んだ内容を使う場面を、上司が意図的に割り当てる必要があります。
将来のキャリアが見えず、成長する機会も得られない職場では、優秀な人材ほど社外へ活躍の場を求めます。
自分の成長を会社が支援していると感じられれば、従業員は仕事や組織に前向きになりやすくなります。研修制度を用意するだけでなく、上司とのキャリア面談や社内公募、異動希望を伝えられる仕組みを整えることも有効です。
離職率が下がれば、採用や育成にかかるコストの削減も期待できます。
求職者が企業を選ぶ際に確認するのは、給与や福利厚生だけではありません。入社後にどのような経験を積めるのか、どのようなキャリアを目指せるのかも判断材料になります。
研修制度やキャリアパス、資格取得支援などが整っていれば、人材育成を重視する会社であることを伝えられます。制度の内容だけでなく、実際に社員がどう成長し、活躍しているかを発信することも大切です。
人材が持つ知識や経験、組織内の信頼関係は、財務諸表に直接表れない無形資産です。しかし、商品開発力や顧客対応力、業務改善力を支えているのは人材です。
人材育成や働く環境の整備に継続して取り組む企業は、将来にわたって成長できる可能性が高いと評価されやすくなります。開示制度が経営戦略と人材戦略の結びつきを求めているのも、こうした理由からです。
人的資本投資は、従業員のためだけに行うものではありません。株主や投資家、求職者、取引先からの信頼を得るための経営施策でもあります。
人的資本投資には、研修やリスキリングのほか、働く環境の整備、健康支援、人材データの活用があります。ここでは、代表的な四つの施策を紹介します。
研修やリスキリングは、人的資本投資の代表的な施策です。
経済産業省「デジタル時代の人材政策に関する検討会」に提出された資料では、リスキリングを次のように定義しています。新しい職業に就くために、あるいは、今の職業で必要とされるスキルの大幅な変化に適応するために、必要なスキルを獲得する、または獲得させることです。
同資料では、リスキリングはリカレント教育とも、単なる学び直しとも異なると整理されています。リカレント教育は、学ぶために職を離れることを前提とします。リスキリングは、就く職務が変わる、または職務内容が大きく変わることを前提とします。
取り組む際は、最初に研修を選ぶのではなく、事業に必要なスキルを明らかにします。その上で、対象者や学習内容、実務で活用する方法を決めます。
勤務環境の整備も、人的資本投資の一つです。
テレワークやフレックスタイム制を導入すれば、育児や介護などの事情を抱える従業員も働き続けやすくなります。長時間労働の是正、会議や資料作成の見直し、休暇を取得しやすい環境づくりも有効です。
ただし、制度を導入するだけでは働きやすい職場になりません。制度を利用すると評価が下がる、周囲に負担をかけるといった不安があれば、利用は広がりません。
管理職への教育や業務分担の見直しを含め、実際に制度を使える状態を整える必要があります。働きやすさと業務の進めやすさを両立させることで、従業員の定着と生産性向上が期待できます。
従業員が安定して能力を発揮するには、心身の健康が欠かせません。従業員等の健康管理を経営的な視点で考え、戦略的に実践する取り組みを、健康経営®と呼びます。経済産業省は、健康経営銘柄の選定や健康経営優良法人認定制度を通じて、この考え方を広めています。
施策には、健康診断後のフォロー、メンタルヘルス支援、運動習慣や睡眠改善の支援、長時間労働の防止などがあります。
健康への投資は、短期間で売上に表れるとは限りません。しかし、欠勤や休職を防ぎ、従業員が安定して働ける状態をつくることは、組織の生産性を維持する上で重要です。
従業員のスキルや経験、資格、キャリア希望をデータとして管理することも、人的資本投資に含まれます。こうした人事業務に活用するIT技術やシステムを、HRテクノロジーと呼びます。
用途は大きく二つに分かれます。
一つは、配置判断への活用です。人材情報が部門ごとに分散していると、社内にどのような能力を持つ人材がいるかを把握できません。新規プロジェクトに適した人材が見つからない、一部の従業員に業務が集中するといった問題が起こります。情報を一元化すれば、異動や登用の候補者を探せます。本人のキャリア希望も踏まえて配置を考えれば、従業員の納得感も高まります。
もう一つは、効果検証への活用です。研修の受講履歴、エンゲージメントサーベイの結果、離職状況を突き合わせれば、どの施策が機能しているかを判断しやすくなります。例えばサーベイ結果と離職率を比較すると、離職の兆候が表れている部署を特定できます。
ただし、データだけで配置を決めるのではなく、本人との対話を組み合わせる必要があります。
人的資本投資は、施策を増やせば成果が出るものではありません。経営戦略と結びつけ、効果を確認しながら改善する必要があります。ここでは、基本的な進め方を五つのステップで解説します。
最初に行うのは、研修の選定ではなく、人材課題の特定です。
まず、自社が3年後や5年後にどのような事業を展開したいのかを確認します。次に、その戦略を実現するために必要な人材やスキルを整理します。
例えば、海外展開を進めるのであれば、語学力だけでなく、海外市場の知識や現地の取引先と交渉できる人材が必要です。DXを進めるのであれば、デジタルツールを扱える人材に加え、業務を分析して改善できる人材も求められます。
必要な人材と現在の人材との間にある差が、優先的に解決すべき人材課題です。経営戦略から逆算することで、投資の対象を明確にできます。
人材課題を明らかにしたら、その課題に合った施策を選びます。
離職率が高い企業であれば、研修を増やす前に、上司との関係や評価制度、業務負荷を確認する必要があります。スキル不足が課題であれば、研修やリスキリングに加え、実務経験を積める配置も検討します。
人的資本投資には多くの選択肢がありますが、すべてを同時に行う必要はありません。課題の重要度や緊急度、期待できる効果、必要な費用を比較し、優先順位を決めます。
まずは対象を限定して実施し、成果を確認してから展開範囲を広げる方法も有効です。
人的資本投資を進めるには、経営層と現場の双方に目的を理解してもらう必要があります。
経営層には、人材への投資が事業成長や収益、生産性にどうつながるのかを説明します。「社員のためになる」という説明だけでなく、経営戦略や事業課題との関係を示すことが重要です。
一方、現場の従業員には、施策を行う理由と、参加することで何が変わるのかを伝えます。目的がわからないまま研修やサーベイへの参加を求めても、形式的な取り組みになりかねません。
施策の目的と期待する変化を共有し、現場から意見を集めながら進めることで、実効性を高められます。
人的資本投資の成果を確認するには、施策を始める前にKPIを設定します。
KPIは二層に分けます。一つは施策が回っているかを見る実施指標、もう一つは課題が動いたかを見る変化指標です。
離職防止が課題であれば、実施指標はキャリア面談の実施率や社内公募の応募件数です。変化指標は、対象部署の自己都合退職者数の推移になります。スキル不足が課題であれば、実施指標は対象者の研修修了率です。変化指標は、該当スキルを要する業務の内製化件数や外注費の増減になります。
目標値は、他社の水準ではなく自社の前年実績を起点に置きます。実施指標だけが改善して変化指標が動かない場合は、施策の内容よりも対象者の選定を疑ってください。
人的資本投資は、施策を実施して終わりではありません。測定した結果を確認し、次の施策に反映する必要があります。
期待した成果が出た場合は、対象者や実施部門を広げることを検討します。成果が出なかった場合は、施策の内容だけでなく、対象者の選び方や実施時期、現場で活用する仕組みに問題がなかったかを確認します。
仮に研修の評価が高くても、学んだ内容を実務で使う機会がなければ、成果にはつながりません。エンゲージメントサーベイを実施しても、その後に改善策を講じなければ、従業員の不信感を招きます。
計画、実行、測定、改善のサイクルを継続して回すことで、人的資本投資の精度を高められます。
人的資本投資は、単なる福利厚生や研修費ではありません。人材の価値を高め、生産性向上や離職防止、企業価値の向上につなげるための経営投資です。
成果を出すためには、自社の経営戦略から人材課題を特定し、課題に合った施策を選ぶ必要があります。さらに、KPIを設定して効果を確認し、継続的に改善することも欠かせません。
一方で、制度や施策を用意しても、現場で十分に活用されない場合があります。社内制度が従業員に知られていない、利用状況を把握できない、エンゲージメントの変化が見えないといった課題も起こりがちです。
こうした人的資本施策の運用に役立つのが、「TUNAG」です。
TUNAGでは、社内制度や福利厚生、情報共有などの施策を一つの基盤で運用できます。サンクスメッセージなどの機能で、従業員同士のコミュニケーションを促せます。
施策の利用状況や組織の状態を可視化できれば、実施して終わるのではなく、結果を踏まえて改善しやすくなります。人的資本投資を現場へ浸透させ、継続的な組織改善につなげたい企業は、TUNAGの活用を検討してみてはいかがでしょうか。